ブログの終わり-無名ブログが死ぬことを決めた日
今日でこのブログは終わります。
「神は死んだ」 フリードリヒ・ニーチェ
「人間は死んだ」 ミシェル・フーコー
「ロックは死んだ」 ジョニー・ロットン
「お前はもう死んでいる」 ケンシロウ
「ブログを殺す」 堀江貴文
「ブログが死んじゃいました・・・涙」
叛逆時計#6 → 自虐時計#9
当ブログサイト「叛逆郊外#6→自虐時間#9」は2005年5月30日をもって、更新を終了いたします。
新たに再開する予定はございません。完全に閉鎖させて頂きます。
頃合を見てサイトのアップファイルのすべてを予告無く削除させていただく所存です。
今までこのブログにアクセスして頂いた方々に厚く御礼申し上げます。
最終回の今日は、ブログを始めて、書き続けながら、終わりを迎える今日まで、思い巡らしたことを中心に、
ブログについて、
語り倒しました。
長いです。
稚拙です。
最後は支離滅裂です。
よろしくお願いします。
■ブログとは、つまり日記である。
この原則は絶対に変わらない。
そして、やもするとジャーナリズムもどきに突っ走るブロガーたちが、常に再帰し続けていく必要のある原点である。
身近な友達同士で内輪ウケに終始し、自己満足で営まれる、露出ごっこの趣味としての自己完結の遊び、これがブログの醍醐味であり、最高のジョークであり、理想の姿なのである。
■ブログの使われ方はその国の民度を表出する
わたし達のメンバーの一人は地方に在住しているが、ある講演の場の質問時間に講演者にブログについて質問したらしい。だが、聴衆の間でブログを知らない人が多かったらしく、結果、質問者と講演者の会話のやり取りに終始してしまったそうだ。ブログブームはブログユーザーの認識とは裏腹にリアルの社会ではマイナーなサヴカルチャーに過ぎないという仮説と考えられる思いがした。
この時代の、特に若い世代の気質の基調を端的に断じてしまえば、「自意識過剰・自己愛過多・他者からの批判を自己の全否定と誤解する程度の打たれ弱さ・過剰な被承認欲求」といった感じではないかと勝手に推測する。そういう気質は総じて「自分語り」が好きである。自己を批判されざる中間的視点に置いて、自己から短い半径の尺度で自分の日常から自己愛をベースに自分を物語るのが好きである。初期の村上春樹の作品のような感じといえばお分かり頂けるだろうか。自己啓発セミナーが流行るのと同じように、村上作品のある特性の延長線上で書かれた小説が各種新人賞に殺到して新人賞ブームが一時期ピークだった(今はどうなのか?)。
まさにこういう大昔の「私小説」の擬似的再興のような文章が書かれる世代であるからこそ、ブログ(WEB日記)は受け入れられるわけなのである。
ブログが「日記」ツールの発展形として捉えられうることと、ブログが「自分語り」としての「日記」として利用されることが多い事実は、「自意識過剰・自己愛過多・・・・云々」という代表気質をベースに論じやすく、必然的にブログが「自己完結で終わるもの」としての限界を良くも悪くも導き出す。
ブログが擬似的にジャーナリズムを構築しても、ブロガーの主観の切り取りで断言的に論じる素人レベルに止まったり、「ネット右翼」だとか「サヨ」だのと目くそ鼻くそ同士の二項対立・誹謗中傷・泥の塗りあいの様相を呈するのは、「自意識過剰・自己愛過多・・・・云々」というわたし達の代表気質が「自己完結で終わるもの」としての限界を抱えやすいからという理由が挙げられるかもしれない。価値判断は抜きにして、ブログで落選運動を盛り上げて成功させる隣国韓国のような現象は、日本ではちょっと考えにくい。ブログを書籍化するブームが始まりそうだが、各種作家の新人賞は衰退の道を辿るのか? わたし達はブログの書籍化は自分史の自費出版程度の相場に落ち着くと思っている。
■ブログの功罪は「一億総物書き」という幻想の「民主主義」を浸透させたことである
ブログ以前にも日記ツールは存在したわけだが、わたし達がここで説明するまでもなく、更新作業やリンク貼りをいとも簡単にこなし、トラックバックという多大な発明を装備したブログは、この国に住む人間が物を書いてそれをネット空間を媒介して世に伝えるという、「一般人がちょっとした作家気分を味わえる」という感慨を最も安価なコストで実現させることを可能にした。
ただしあくまでも「作家気分」というところが肝心であり、「作家」になれるわけではない。この部分にこそブログの功罪の要素の多くがいろんな意味で発生している気がする。
ブログはネット空間を媒介にしている点においてブロガーを作家には成しえない。ネット空間で物を書くことと他の媒介を使って物を書くこととの隔たりはネット利用者の認識を遥かに凌駕しているのが現状ではないか。
また作家は、小説家から記者に至るまで、基本的に日本語を「縦書き」において人々の手元に届けるのである。「横書き」が一般的であって、「縦書き」タグが生かされにくいブラウザを通じては作家は誕生しない。「縦書き」によって成長した世代の「言語体感」はそう簡単には破壊されることはないのである。そして「縦書き」が読まれることと読まれないことの隔たりは、ネットと他のメディアの隔たりと同じく境界は広く険しい。
■ブログの普及によってアキバケイのネット一曲支配が終わり、よりグローバリズムへの隷従化が加速化した。
サイト構築に関して、HTMLタグやJAVAスクリプトといった「技術者」水準の知識が必須条件であることをほぼ完全に無効化したブログの登場はサイト作りの難易度のレベルを思いっきり下げる役割を果たした。喩えてみるならば、飛行機のパイロットの訓練をしなくても近所の教習所で普通免許を取得すればいい具合に、かくも簡単に自分のサイトを簡単に作れるようになった。
かつてサイトを持たざる者はサイトを所有する者に対して、その所有者の知識と所有の事実に対して劣等感の壁を築いていた。だが今や立場は逆転したかもしれない。私見ではあるが、今ではブログを持たざるサイト運営者は、いとも簡単に大量のアクセスを獲得できるブログの力に驚異し、ブロガーに対して、ブログ人気に先乗りされたこととブログを現に所有している事実に対して羨望の眼差しを送っていたりして。。。。。と予想してみたりする。
WEBの知識が豊富な者でなくとも、WEBに積極的に参入することが可能になった。WEBに関する「技術者」の役割への依存度は著しく後退した。
ただし素人でもブロガーになることでWEBへの参入者は増えたであろうが、そのぶん、ネットジャンキーも増えたかもしれない。ネット中毒は深刻さを増したかもしれないが、ネットにおける悪癖やインモラルが改善されたわけでもない。ネットそのものの意味自体ををネットに依存する人間によって根源的に問い質されるということは、ほとんどそれはある種の哲学的命題に対峙するようなものである。
そしてブログの普及したことで、マイクロソフトの独占資本状況に革命が起こるわけでもない。むしろビル・ゲイツはますます顧客を増やし、彼の「信者」に「布施」をさせたといえるだろう。
■ブログは基本的にすべてが「日記」であり、それ以下でもそれ以上でもない。
ゆえにブログメディアだとかブログジャーナリズムなどというものは、ブロガー寄りのジャーナリズムによって仕掛けられたブームであり、それは架空の幻想の域を決して出ることはないだろう。
時事や世相を語るようなブロガーはボランティアでメディアに奉仕しているのである。別に誰に頼まれたわけでもないのに頭を突っ込む退職後の余暇の過ごし方のような社会貢献であり、ブログとは朝日新聞で言うところの「声」欄であり、間違っても「天声人語」にはならない。
頼まれもしない社会貢献というのは公園の除草作業が最も理想的である(健康に良さそう)。間違っても自警団など組織してはならないのだが(心を蝕んでしまいそう)、そういう類のブロガーが増えているのは、仮想世界に自己を見失い傍迷惑な正義感を振りかざす一部ブロガーの勘違いの暴走ゆえであり、失政ずくめの政界と腐敗の渦巻くマスメディアのだらしなさゆえなのである。
ちなみにアフィリエイトは新手のアムウェイのような稼ぎ甲斐のない利益信仰である。
■ブログとは「書くこと」に追われるサラリーマンの住む公団住宅のようなものである
ブログとはどこまでいっても「日記」である原則を免れ得ない。だがここで論じることは「日記」を否定するわけではない。
通常のネットサイトは、サイトにも拠るが、ブログよりも多目的な用途のカテゴリを設定しやすく、ブログと比べた上では空間的な要素に広がりを持たせやすい。
ブログというのは通常のネットサイトの「日記」という単独の用途に目的を絞って、利用者の使いやすさを徹底させトラックバックという最新兵器を兼ね揃えることによりサイトとしての確立に至った。だが「日記」用途を主目的としてその機能を拡大延長したに過ぎないわけだからブログ以前の「日記サイト」の発展形という比喩がふさわしく、通常のネットサイトと見比べてみれば、ブログの使いやすさの便宜性ゆえに空間的な要素の縮小を余儀なくされている。
ここでいう空間的な要素とは単純に視覚的な「感じ」においての意味であり、喩えるなら通常のネットサイトが庭園付きプール付きの邸宅であれば、ブログは庭なしベランダなし間口は狭いが奥行きを持たせた公団住宅である。
そして通常のネットサイトの「遊び」の部分であるチャットや掲示板のようなツールが、なくても構わない傍流の付加価値に過ぎない「日記サイト」の発展形たるブログはひたすら書くこと、主に「言葉を書く」という目的がメインであり、用途が限定されることがかえってサイトとして簡素で利便性の美しさとして映りやすいスタイルなのである(モブログは携帯写真のしょぼさやブロガーの視覚的日常が被写体である限り言葉付き画像という意味の「写真日記」である。「日記」の意味合いは変わらない。もっとも、カメラや被写体の種類が多様で、画像の画質や解像度に徹底して拘るブログならば「フォトサイト」の雰囲気に変貌するかもしれない)。
「言葉を書く」ということが主目的に絞られたスタイルであることから、ブログの功罪が発生する。ネットは意思としての言葉を高速に伝達するが、リアルな対面を介しない言葉のコミュニケーションの問題はネットの匿名性の問題なんかよりも実はそっちが俄然重要であり、危険な要素を含んでいる。ブログはその問題に関して、通常のネットサイト時代よりも問題の可視を容易にし、より身近にその実感を抱かせることに貢献している。
■ブログ初心者なわたし達が匿名性の高い複数人執筆の構成でブログを始めた理由
わたし達は全員、すでに通常のサイトの管理人経験を持っていた。ブログを始めるにあたって、「日記みたいなブログだけはやりたくないよなぁ」と話し合っていた(後に「ブログとはすべて日記である」という現在の結論に至ったのだが)。
ブログを私的な身内向けの日記利用だけはしたくなかった。そんなのは巷にあふれている。人と同じことをしたくない。「時事・世相についてのコラムを書く」ブログしか思い浮かばなかったのは、わたし達がそういうブログか「日記」ブログしか読んでいなかったからだろう。
わたし達は「身近な友達同士で内輪ウケに終始し、自己満足で営まれる、露出ごっこの趣味としての自己完結の遊び」としての「日記」ブログのあり方を極端に嫌悪していた(だが今はそれをむしろ理想とする考えに転向したわけだが。。。)。匿名性の高い、複数の人間によるグループ執筆のブログというアイデアは、他にそういうのをやってる人が少なかったこと、「日記」ブログへの嫌悪、といった理由から生まれたものだったと思う。
日記とは書く主体の人間の「顔」を最も如実に表象する創作物である。「ブログはすべて日記である」という前提はブログ開始当初はなかったが、わたし達は「顔」が露骨に露出される状態での「自己完結としての自分語り」を嫌っていた。その(リアルの世界での担保のない)ナルシシズムを嫌っていた。
「自分語り」を忌避するためにはブロガーの「顔」が表れにくい状態にする必要があり、ブログから「自己完結・自意識過剰」の色をしたナルシシズムを払拭するにはブロガーの個人的背景や日常の匂いを消し去る必要があった。だからたくさんの「顔」を並べて一つの「顔」から醸し出す要素を薄めるための「複数執筆陣」、ブロガーのプロフィールを簡略化し「いてもいなくてもいいような」「誰にでも入れ替え可能な」レベルまでに個人のパーソナリティを希薄にさせるための「匿名性の高さ」を選んだわけだった。
■わたし達のブログには「執筆陣」に名前を連ねながら明らかに実在しないブロガーもいた
実際の常時固定のメンバーの数は「プロフィール」の「執筆陣一覧」のリンクで別ウィンドウで名前を連ねている人数を下回る。わたし達のブログでは架空のキャラが存在し、固定メンバーが自分がメインで使用したハンドルネームとは別にサヴハンドルネームに使用して、両方のハンドルネームを使って記事を書いたりしていた。
なぜそうしたかの理由は故意にそうした部分と事態の流れでそうなった部分の両方にある。当初参加メンバーだった一人がブログ開始のごく初期の段階で離脱した。残ったわたし達はその人間が実際に記事を残している以上(そしてそれが削除しない限り残り続ける以上)、名前は削除すべきではないのではないか、という結論に至った。そのうちにその去ったメンバーの名前を使って、日頃自分がメインのハンドルネームでの記事で書かない作風の記事をアップするメンバーが現れた。またその逆に、自分がメインの名前ではアップしないような内容の記事を別の名前をでっちあげてその名義でアップしようとする者も現れた。
わたし達は記事の最後に必ず「文責」の署名を入れた。これはブログを読む人間に対して、複数で書いていることの合図であり、その記事の内容から発生する責任は文字通り「文責」に署名した記事の執筆者にかかってゆくものです、とのアピールであった。架空のハンドルネームで「文責」を負うというのはナンセンスな話で、ブログの読み手に対しての「詐称行為」であることも自覚していた。「文責」とは外側への「詐称行為」でありながら、もっぱら内側にいる書き手のわたし達にとっては倫理的な意味しか果たさなかったところが現状だった。
2ちゃんねらーはほとんどの人間が「名無しさん」の世界だが、わたし達は体質としての2ちゃんねらーを激しく嫌悪しながら、2ちゃんねるの「名無しさん」という完全な匿名性の世界の構造には関心があった。彼らはどこからどこまでが実在・非実在の存在か判らず、そういった次元で誹謗中傷をし、煽りもすれば釣りもやる。「名無しさん」が非実在性を孕むことの要素が、彼らの発言力の威力誇示を可能にする(同時に彼らは「厨房」を恐れる没個性のムラビトにもなる。非実在性の要素が担保されているのに自分の発言へのからかいに怒ったりもして実に不可思議な連中だが)。
わたし達は2ちゃんねらーの威力誇示を可能にする「非実在性」の構造を逆手にとることを考え出した。実在しないメンバーを作り出して実在しないメンバーの名で記事を書いたりすることで、絶対的多数の反動的世論にアンチを唱える際にかならず加わってくる圧力や反動者の威力誇示から自己防御することができた。つまり、非実在のメンバーも含めた匿名プチ集団であることを自分達に言い聞かせることで圧力に対する精神的余裕を保ち、例えば個人サイトでは絶対に発言することを躊躇するような絶対多数へのアンチテーゼを書き立てることも可能に出来たわけである。
しかしだからといって、実在のハンドルネームで記事を書こうと、実在しない人間の名前で記事を書こうと、ヘタレな記事を書いたときはどちらの名前であろうと書いたことの悔いや痛みやダメさ加減にへこむことには変わりなかった。名前を使い分けても、わたし達の匿名性が個々のアイデンティティ(記事の内容ではなく「文責」としての)を外側に向かって拡散してバラバラにしても、わたし達自身は自分が書いたものに対する(その内容や主旨や込めた気持ちに対する)喜びを享受したし、果てしなく自己嫌悪した。わたし達にとって実在することと実在しないことの垣根はアンチテーゼを唱える程度以上の意味も感慨も無かった。
非実在メンバーを作ったことに関して補足することがある。
外部のブログにコメントを書き込んだ人物は明らかに存在し、その人物は自分の意見を自分の個人的意思で述べたことに関しては事実であり、その人物が語った個人的事情があるとすればそれはすべて彼のリアルの日常の事実そのものである。
また「清原よ、さっさと500号HR打ってくれ!! そして球界から去れ!!!(号泣」(4/23)において文責署名したメンバーはプロ野球の巨人軍・清原和博内野手をクソミソに批判し、「わたしの言葉を『公共の場所において不当に侮辱なされたもの』とお思いになったら、わたし、cherrymoon#9.6を名誉毀損罪で告訴してください。」と公言(しょぼいですが。。。)を吐いたわけであったが、もし仮に清原選手が告訴してきた場合(こんな弱小ブログ記事の無名の阿呆を相手にするような器の方ではないのだが。。。。)、わたし達は本気でこのメンバーの身元・本名を明らかにするつもりでいた(今から思えばそうした「覚悟」が自意識過剰極まりないが。。。)。
このメンバーが清原選手の「チンポコ発言」に憤慨しながらも、「告訴されたら終わりだな」とヘタレに震えながら記事をアップしたこともヘタレではあるが事実である。
■ブログでもっとも書きにくいカテゴリは「時評」である
ブログというツールに実際に触れてみて、ブログを始める以前よりもマスメディアに関する評価は確実に変わった。マスメディアの提供する一時情報のソースが、いかに恣意的で計画的な脈絡をなぞっているかがわたし達の中で明確になった。
ブログに触れることがなければ、「愛国無罪」という言葉の由来について、その正確な情報を知りうることはなかっただろう。
時評を書くということは、マスメディアの提供する恣意含みの一時ソースに批評的でありながら、いかに、自己の恣意に対しても客観的な情報ソースを多元的に押さえることが出来るかに限る。
多元的な情報ソースを張り巡らせるスクラップ・ノートのようなブログを散見するが、こういうブログは論陣を張らないという意味では安易に感じられる。しかし多元的な情報ソースというものが致命的に少ないこの国で、それらを集めるということ自体の労苦を思えば、こういうブログのブログメディアへの貢献度は大きいと言わざるを得ない。
情報ソースを限りなく収集しながらマスメディアに対して対抗的な論陣を駆使することの出来る少数のブロガーの質的クオリティには脱帽する。
マスメディアと同じ手段を用いながら恣意的な情報ばかりを張りながら、感想文一行で帰結する多くの偏向的ブロガーの存在はスルーするしかない。
■複数執筆陣編成の時事ブログのススメ
わたし達は積極的に「時事を語るブログ」スタイルを目指したわけではないが、たまたま反日運動やらJRの事故やら内外の情勢が目まぐるしい時期であったので、これに積極的に関心を持たざるを得なかった。ブログジャーナリズムに関与したわけである。
マジョリティ(多数派)に向かってマイノリティ(自分の不幸がもはや不幸とすら感じられなくなった少数弱者・・・としておこう)の側から記事を書く場合、複数執筆陣で匿名性を過度に引き上げた状態でマジョリティを叩くのは非常に楽な行為である。ブログは個人で書く場合が多いから、複数で書くブログに対しては、反論する側も個人のブログに向かうスタンスとは違うわけで、反論のスタンスの取り方に迷うのかもしれない。こちらはこちらで、記事の文責はハンドルネームを記しながらも、ハンドルネーム自体の背景をほとんど語らなかったので、誰の名前で誰が書いても「叩かれるときはみんな一緒」という感じで安心してネットウヨクを「政治的白痴」呼ばわりも出来た(なおかつわたし達は臆病なヘタレブロガーなのでヤバイ記事にはコメント禁止を徹底した。。。)。たぶん新聞や雑誌記者は大勢で組織で書いてるからえげつないこともできるのだと、わたし達はしょぼいレベルではあるが、彼らの立場の実感に近づけた(ほんのちょびっと)。
しかし時評はもっとも書きにくいカテゴリなわけだ。どだい、わたし達は書くことは「ド素人」で、しかもみんなで仲良くブログしようというぐらいだから、リアルで友達が少ない。だから共同作業に慣れてない。人数の頭数さえそろえれば記事を書くのは楽だろうと言う考えは甘かった。時事を扱う場合、どんなに執筆人数が多くても、「ド素人」が集まって「共同作業が苦手」なイタイ連中の寄せ集めでは、記事のクオリティを保ちつつ、なおかつ更新を迅速に行うという、新聞がいとも簡単にやっていることは絶対イタイわたし達にはできっこないのである。ブログの時評記事に縛られて日常生活まで破綻を来す。わたし達のブログは時評を扱うことにおいてブログの寿命を縮めたと言えるかもしれない。
きっと時事を扱うことの労苦を本物のライターや新聞社は、「プロの仕事」と「組織性」でカバーしているのであろうとわたし達は結論付けた。しかし時事を扱うことのクオリティと更新速度の関係を比例上昇させることは、非常に難しい。「ライター」や「組織」は「何に向かって書くか」というシナリオやセオリーをあらかじめそろえている部分もある。だから過剰かつ瑣末な次元のJR叩きのような偏向記事も生まれるのかもしれない。
マスメディアにとってのクオリティとは、あらかじめ設定付けられたプロットに対していかに最大限の演出を加えるか、その目標達成値であるのかもしれない。
■トラックバックは弁証法的方法であり、かつ巨大掲示板のスレッドの形を変えた姿である。
議論というのは弁証法的でなければ無意味だと思う。論争が弁証法的な方向に向かうことがこの国ではありえないこととされてしまうのではないかという疑問はTVで「朝生」を見ればよく分かる。
ブログという社会現象がマスメディアに対する対抗言質になりうるにはトラックバックという方法は画期的だと思う。
マスメディアが弁証法的になることなどありえない。日本中が巨人ファンであればよいとするような新聞が存在するごとく、メディアは互いに足を引っ張り合う。
マスメディアがこの国で無様な様相を露骨に見せてくれる限り、ブログはマスメディアに対して批評的であろうとする共通項において、弁証法的な言質を構築する可能性を持っている。
ただし、ブロガー全般において、ある一定の暗黙のルールの折り込みが共有されなければ、トラックバックという方法はいとも簡単に悪貨へと堕落する。
例えば、時事的なものへの感想が、共通の悪意、ポピュリズム的な高揚において、同質なレベルの「世論の波」を作るためにこの方法を利用されるなら、トラックバックは弁証法とは正反対の、巨大掲示板の無数の均質化した感情を羅列したスレッドのように、無批判かつ迎合的な大衆翼賛ごっこの塊でしかなくなる。
ただ、2ちゃんねらーよりもブロガーの匿名性は遥かに実質性を備えており、釣りや煽りの作為が操作されにくいだけマシではある。
■個人的感慨や背景を語り口にして政治や経済を裁断するブログを素人は書かない方がいい
70年代の作家・鈴木いづみのSF小説『恋のサイケデリック!』についてネットで書かれた批評を読んでいたら、面白い文章に出会った。
「今ふたたび鈴木いづみが蘇って来た背景には、マス・メディアによる誘導も一部にはあるにしても、それ以上に社会に対峙する人々の態度が、きわめて主観的になって来たことがあるように思う。自分本位という言葉に置き換えてもいい。政治・経済・社会・文化といった客観的な要素をこねくり回して紡ぎ出す未来像ではなく、「あたしだったらこう思う」と力強く言い切ってしまう主観的な未来像。そして読者は、鈴木いづみの提示する未来像に共感すると同時に、鈴木いづみが未来像を提示する方法論に惹かれるのだ」
これって、最近のエッセイストなんかが物を書くときに構えるスタンスそのままじゃん。エッセイストだけじゃない。TVのワイドショーなんかに出てくる有名人コメンテーターもこうだし、というか、ブログの記事に時事や世相に感想入れるときって、みんなこうだし、てか、こういう「『あたしだったらこう思う』と力強く言い切ってしまう主観的」な切り口、ていうか、物の考え方って、主流というか、「これで当たり前」とされる認識の常套手段になってるんじゃないかな。
「『あたしだったらこう思う』と力強く言い切ってしまう主観」で言い切ってしまうということは、要するに、「感想を言う」ことであって「検討する」とか「批評する」ってことと同義語じゃないはずなんだけどな。「批評する」つもりで「感想を言う」人が多くなったのか、それとも「批評する」なんていうスタンスが大学にでも行かなくちゃ教えてもらえないくらい世の中で見つかんなくなったのか。
「サンデー毎日」の中野翠が書くようなコラムなんか、こういうスタンスの使いまわしだもんね。彼女は政治だとか経済について触れるとき絶対に「わたしは政治も経済もまるっきり分らない素人だけど」みたいな前提を必ずつける。それで「感想文」を書く。反日暴動のときだって「中国人が周作人みたいな隣人だったらいいのに」って言いながら中国がハワイぐらい離れてたらいいのにとか、訳分んないこと言ってバカ丸出しだった。だって、「日本人がみんな小林よしのりみたいだったらいいのに」というような著述家が台湾でメジャー雑誌の連載してたら、台湾メディアの人材のクオリティというか台湾の民度の程度を疑っちゃうしね。こういう人間がこういうド素人の政治「感想」発言をするって先進国にとっては前近代的で国辱だと思うんだよね。
中野翠と比べれば小林よしのりは「ただの感想文」で政治を切ったりしない。彼は「ただの感想文」の中に「彼の経験」や「誰かの経験」を持ち込んで、それがまるで「日本の経験」みたいにデフォルメしちゃう(漫画家だしね。。。)。果ては「これが真実」と事実を「創作」しちゃうのは周知の事実だけど、彼にカタルシスを抱きやすい人が多いってことは、彼が「自分の言葉で語る経験や自分の物語」という「主観の切り口」で話し始めるからなんであって、今の主流的なものの見方のスタンスである「『あたしだったらこう思う』と力強く言い切ってしまう主観」としっかり波長が合うってことなんだよね。
でもそれだけじゃないと思う。「『あたしだったらこう思う』と力強く言い切ってしまう主観」で語られる内容とか経験って、実はすごく語りやすい語り口なんであって、そんでしかも、人から否定されにくい語り口であり、見方を変えれば、他者がそれに対して反論がしにくい語り口なんだよね。
だって個人的な背景ってすんごく文句つけにくいでしょ? たとえば「戦争体験」なんか聞いてるときとか「ただ聞くしかない」ような相手の中に踏み込みにくい領域な訳でしょ。まあ、「ただ聞くしかない」という「戦争体験」の経験値に対する受け手が「経験されざるものの劣等感に裏打ちされた、不遜なストレス」を感じるから戦争はなくならない、ってなったらそれで終わりなんだけど。
でも小林よしのりとか中野翠なんかの「感想文」が曲者なのは、「社会に対峙する人々の態度が、きわめて主観的になって来た」ことだけじゃ説明不足なんだよね。彼らの話す「『あたしだったらこう思う』と力強く言い切ってしまう主観」というのは非常に耳障りが良くて気持ちいいわけ。「大衆迎合」って揶揄したくなるぐらい。耳障りがいいと「経験されざるものの劣等感に裏打ちされた、不遜なストレス」が「経験してないのに経験したような気分になる錯覚に裏打ちされた、経験そのものへの共感という名の偏見」に変わっちゃって、まるでストレスとは正反対の快感に満ちたカタルシスを感じるという異常現象が起こるわけ。
「大衆迎合」って何で揶揄したくなるかというと、「大衆」ってのは「あたしだったらこう思う」っていう社会への対峙の仕方しかできないからで、だから「政治・経済・社会・文化といった客観的な要素をこねくり回して紡ぎ出す」ように社会を批評できる少数の頭のいい人から「衆愚」なんていう言葉で片付けられちゃうこともあって、「大衆」ってのはそういう人にバカにされて怒りながら、心のどこかで「客観的な要素をこねくり回して紡ぎ出す」ことができること、ってのが全然意味わかんなくても、ひがんでてうらやましがってるわけ。うらやましいから「感想文を書く」程度の「有名人」が現れてくれたら、その「有名人」の権威に簡単に弟子入りしちゃうわけなんだよね。。。。
結局何が言いたいかって言うと、「感想文を書く」ような自己完結スタイルで物を書くような「有名人」の権威にポアされちゃってるから、ブログの世界でも「『あたしだったらこう思う』と力強く言い切ってしまう主観」なんてカッコいい表現だけのスタイルだけ真似てて、「有名人の感想文」よりもセンス無くて面白くない「感想文を書く」ブロガーがネットでいっぱいうろうろしてるってだけの話。
でも「客観的な要素をこねくり回して紡ぎ出す」という、実は人にあんまり知られない、死ぬほどつらい作業でも、仕方なくやらなくちゃいけない「政治・経済・社会・文化」の向こう側にいる、わたしたちにとっての、「未知」とか「異端」とか「得体の知れない不安」のような主観では語りうることが絶対に不可能な恐ろしいものはいつだって現れてくる。そういう恐ろしいものにレイプされたり、爆撃されたり、不条理に殺されたりしたくなかったら、「客観的な要素をこねくり回して紡ぎ出す」ことと、どっかで妥協して折り合いをつけて、そのやり方を練習しなきゃならないことだって当然あるって言うだけのことなんだよ。。。。
個人的感慨や背景を軸にして一見「感想文」に見えながら卓越した「批評」を提出できる稀有でオトナな作家は、恐らくこの国ではわたしの知るところ橋本治ただ一人であるように思う。
■わたし達はブロガー同士の付き合いを好まず、ブロガー内での内輪ウケのごとき現象を激しく嫌悪した
付き合いを好まなかったのだから、当然のごとくわたし達のブログはトラックバックやコメントが記入されることは皆無に等しかった。3ヶ月間ブログをやって、トラックバック・コメントの両方をあわせても数は一桁に収まるのではないだろうか。
たぶん、わたし達のブログの形がコメントなどを書き込ませにくい構成であったことは否めないと思う。わたし達もまたトラックバック先をポータブルサイトのカテゴリに向かって送信することはあっても、個人のブログにトラックバックやコメントを入れることも稀であった。
わたし達は人様のブログを読んでいる時に、記事の中で他のブログのことを「ブログ名+さんづけ」で読んでいる箇所に遭遇すると、気持ちが萎えた。それよりも一層萎えさせられたのは、記事の中に注釈なし(ひどい場合はリンクなし)で「切り込み隊長」「ガ島通信」などといった固有名詞としてのブログ名が出てくるときであった。
「切り込み隊長」だとか「ガ島通信」、いったいなんなのよ??? という疑問符に続いて、恐らくこれが有名なブログの名前なんだろうなあと説明無く了解させられた後に感じさせられたのは、そういった有名なブログを頂上として裾野が広がって、いろんな非有名ブログが無数にそんざいしているんだろうなああ~というような、ブログ後発者の僻みと疎外感の居心地の悪さであった。
人気ブログランキングなどに登録しているブログに顕著な現象は、カテゴリの集団としての「有名か有名じゃないか」という暗黙の序列化をベースにした「内輪的要素」である。この「内輪的要素」は「有名なブログを頂上として裾野」から離れた辺境地帯から眺めてみると、単に集団としての外発的「自己完結」にしか見えない。
もちろんそういう外側からやってくる「自己完結」な「内輪的要素」に加わる必要も無いのだが、後発のブロガーにしてみれば、「知らなきゃ厨房」みたいな、なんか胡散臭くてウザイだけの「権威主義」を振りかざされているような不快感しか持ち得ないのである。
2ちゃんねるは板として「自己完結」であり、自己満足な趣味としての読者身内の「日記」ブログは内発的に「自己完結」なのである。「有名か有名じゃないか」という暗黙の序列化をベースにしたカテゴリの集団としてのブログの「自己完結」は、ブログを新しいメディアだとか文化として語られたり、観念的長所をあげつらわれる。そういうのも相乗して、ブログのこういう「自己完結」性は「自己完結」が専売特許の「自意識過剰・自己愛過多」が代表気質の世代からすらも敬遠されるような、なんだか上から見下されたようでありながら「厨房」と呼ばれたって与したくないような「内輪的な世界」であるに違いない。
ひとたびこういう「内輪的な世界」を覗いた瞬間、わたしたちは自分達のブログが「なんだか訳のわからなくて統一性の無い匿名集団」によって書かれる構成であることにおいて、「有名か有名じゃないか」という暗黙の序列化をベースにしたカテゴリの集団としてのブログの世界を、「ゆるい2ちゃんねる」のように見下してヘタレな優越感に浸ったものであった。
ブログの観念的な長所をでっち上げる人々に限って、通常のネットサイトを管理した経験が無かったりする。そういう人たちはブログが単なる「ツール」であるとする仮説的な見方が欠落している。
「切り込み隊長」だとか「ガ島通信」を頂上とした裾野の世界なんてどうでもいいオフラインの世界に向かって、ブログを書籍化しようなどと目論むのは、失笑に値する。
■ブロガーが匿名であるべきか実名であるべきかの過度な論争は不毛である。
それ以前にネットの匿名性の作用についての遥か昔からの膨大な議論や経験の蓄積に再帰されなければ空振りな話であるし、例えば「ブロガーの匿名性」と「サイト管理人の匿名性」と「掲示板スレッド内の匿名性」は同質ではなく、ネットにおいて匿名性の在り方が多様であることを踏まえられなければならない。
ブログの有益度は、言うまでもなく書いている人間に付随しているものではなく、あくまでもそこで述べられている内容の論述の質に担保されている。
論述の質に関して実名であるか匿名であるかの条件は反映されにくい。むしろ論述の権威づけやヘタレぶりに関してこそ実名のもたらす効果が反映されやすいと言えるかもしれない。
あるブログへの人気がそのブログの論述のクオリティによって確保されてるとは言いがたい事実が示される現状で、ブロガーの匿名・実名論争において、我々が論理の正統性をそもそも何によって判断しているのかが問われなければ、まるで意味がない。
わたし達のブログは匿名性を厳守した。でなければ、「某雑誌で拉致問題に非協力的だったメディアを報復的に弾劾するかのような企画に参加していた蓮池透氏の高圧的な態度も嫌だった」などと書けやしない。ましてや、北朝鮮拉致問題に関して「飢えたる人民を『北』という揶揄を込めた抽象的対象群に集約化してこそ、『飢餓輸出』などという内容空疎意味不明の人造言語を作り、人道食糧援助を停止し、経済制裁に陥れ、隣国の子供を餓死させながら『拉致された子らを返せ』と欺瞞の憤怒に開き直ることはできるし、かかる己らの非人間的感覚を黙殺しうるのである」などと書くのはヒヤヒヤした。コメントスパムは怖いんです。実際に個人情報を暴露されて閉鎖に追い込まれたブログの話なんか聞いてますとね、実名だとか何とかって言う問題じゃないでしょう。
ある著名ブロガーが粘着質なまでにブロガーの実名を訴えて、実名と属する組織を披露しない限り、コメント等を許さないと書いているのを見て、この人は健忘症にでもかかっているのかと思った。一番最初のイラクの人質事件をもう忘れてしまったのだろうか。人質になった一人は実名を出してサイトを運営していた。事件が起こってその人のサイトはまっさきに休止に追い込まれた。あの著名ブロガーの脳機能の中には、社会的ステイタスも何もない人間が何の後ろ盾もなく、「殺されてしまってもいい」だとか「反日分子」などと言われるある日突然襲い掛かった日常の不条理の恐怖に想像力を働かせるパーツが存在しないのか? それとも著名なステイタスゆえに彼の発言は論述の貧しさにもかかわらず、権威の力を借りて常に議論の正統性を勝ち得ているのでしょうか。
実名や固定ハンネが罵詈雑言の抑止力になるのは「世間体」だとかおっしゃる実名ライターの方がいらっしゃったが、「世間体」ってなんなんでしょう? 容易に権威主義やその反動に屈してしまうような、倫理観とは無縁のヤツのことですか? 「世間体」で罵詈雑言を封殺できるなどと仰るからにはきっと、「週刊新潮」だとかいうような、倫理観よりも権威とアンチ権威のバランスで移ろいやすい世相の生み出す「世間体」を周到に日和見して、善玉・悪玉を選び出してスケープゴードにするような雑誌なんてお読みじゃないんでしょうね。「『世間体を気にする』とは相手を思いやることであり、『こんなことを書いたら本人は傷つくかな?』とイメージすること」というあたりがこの人の「世間体」の定義らしいですが(辞書に載ってないような強引な定義だよな。。。)、実名や固定ハンネで「世間体」を気にしながら書かれた発言が「論述の質」までも保証しますか? ていうより、「議論の正統性」を巡る対話は客観的な「論述の質」が対話の過程で向上しあっていくことによって得られるわけで、そういう対話のスキルが磨かれていくならば、実名も匿名も関係無いでしょう。客観的な「論述の質」を互いに磨きあうような、あくまで「議論の正統性」を巡る対話を目的とすることに、あえて実名だとか固定ハンネの括りに拘ってしまうんであるならば、「対話を見ずして人を見る」(これこそよほど「世間体」の正しい定義に近いする気がするんだが。。。)ような、「論述の質」に関心を払っていないような具合に感じられるんですがね。。。
サイトなりブログなりを運営している人間が実社会で達成されない自己実現を仮想社会において暫定的に達成されるエクスタシーに悶絶しているようなネットの使われ方を思えば、実名であろうと固定ハンネであろうと、ネット上で一貫した活動を行う人間における己の名前への執着の度合いは高く見積もっても見積もり過ぎることはないと思う。そういう類の人は嫌われたり仲間はずれにされることが怖いので「世間体」とやらに関心を振りまくのに熱心だろう。
その程度の「世間体」で成熟した議論が確保できると思い込めるような、「自己保身」と隣り合わせの他者の人間性の複雑さに対する「自分本位な値踏み」は、迷惑以上のなにものでもない。
■実名ブロガーに関する瑣末な私観
ブログサーバーが営業対策の手段として、またはコミュニティ要素を高める企画として、芸能人や作家にブログを書かせる事に関して、ブログ人気に便乗した売名行為ではないか?という批判を目にすることがあるが、売名行為である以前にブログ文化普及啓発(余計なお世話だが)のためのボランティア活動(引いてはネット依存啓蒙活動)ではないかと思ったりする。
ブログで読まれるものに関してはブログサーバーに対価を要求できても、それは印税という形にはならないのだろうか? てか、ネットで書かれたものに関してはWEBの特性上、私益よりも公益に還元されやすい。だからサーバーお雇いの有名人ブロガーは彼らの著書のクオリティほどには対したものをブログには書かない。むしろ、トラックバックしてきた無名の人間たちの雑多な文章を読み、それをブログ記事に取り上げたりする作業は、彼らの実力によって勝ち得た実名ブランドによる収益効果の余剰であることを差し引いても、当人たちにとってはしんどい仕事なのではないだろうか。
ブログサーバーに雇われた有名人ブロガーのブログを読んでて、「これだけはやめて欲しい」と思うのは、彼らのブログにトラックバックしてきた連中のブログの名前を記事に取り上げたり、連中のブログの記事を引用したりする、ああいうコミュニケイトのやり方だ(特にココログで時事世相を扱う有名人ブロガーなどの場合)。本人達にその気が無くとも、あれは有名人ブロガーを頂上にして裾野を広げているようで、権威主義っぽい。特に時事世相を扱う有名人ブロガーの場合、彼らがトラックバックしてくるブログ記事を引用したりしているものの内容がしょぼいと、権威主義の匂いに有名人ブロガーのヘタレぶりというおまけがついてくる(ちなみに引用が多い有名人ブロガーに限って本人の記事のクオリティは致命的に低かったりする)。
むしろブログ以前は有名でもなかったのに、ブログを活用することによって有名になったジャーナリストらの存在こそ、良くも悪くもない意味において売名行為であったと結果的には言えるかも知れない。ただブログ人気自体に便乗してブログをマスメディアの対抗軸として考える側に立脚したブログジャーナリズムは、ブログの中でのみ効果的であるかもしれない。ブログで有名になった人間がブログで書いたものが書籍化されたとき、ブログに向かって書かれた姿勢が書籍の形でオフラインの世界に訴える力があるかどうか甚だ疑問の余地を残す。余談ながら『電車男』はネットの面白い見世物をオフラインの社会に晒したからこそ売れたのであり、ネットで書かれることと書籍で書かれることの境界を無効にしたのではなく、むしろその境界が浮き彫りにされたからこそ売れたと思う。
もうひとつ余談ながら、宮台真司のブログが面白いと思うのは、彼がすでにブログ以前に有名人でありながらブログを積極的に活用し、ブログ現象を客観的に対象化するリアルの学者のスタンスから始まっており、ブログをツールとして戦略的に向き合っており、彼が書籍で書くものの一部をブログに転用したり、書籍のクオリティをブログに巧い具合に「おすそ分け」することに長けているからではないかと思ったりする。
■ソーシャルネットワーキングにブログとは片腹痛いぞ
どうでもいい話で恐縮ですが・・・・・・ブログやその記事のURLを2ちゃんねるに貼られた場合、まあ、経験者はお分かりかと思いますが、2ちゃんねるの掲示板そのものではなく、別のサーバーを経由してくるので、いったいどこの話題の板に張られたのか全く分からない。
2ちゃんねるの有料検索を使えばスレッドが特定できるらしいのだが、そこまで見つけようとする関心もあったりなかったり。
アクセス権限のない場所にURLを貼られたりすることもあるが、不快といえば不快だが、それもどうでもよかったりする。
それよりもmixi内にURLを貼られた場合にこれに対して逆アクセスできない現状に対してこうしたソーシャルネットワーキングの排他性をしみじみ感じ入ることの感慨の方が自分にとっては重要であったりする。なぜなら、そういうときに自分が思うことは、「mixiというのは他者に見られることすら許さない排他的な2ちゃんねると呼ぶべきものではないか」ということであり、2ちゃんねるよりも場合によっては厄介な巨大コミュニティではないかと思ったりするのである。
ソーシャルネットワーキングとブログを組み合わせたブログサーバーが登場するらしいが、ブログの公益的な利点なんかまったくどうでもいいよというスタンスである以前に、そこまでして「ブログ」を名乗る意味があるのかと思う。「日記」でも構わないのにあえて「ブログ」という名前を冠するところにブログの実質的利用価値には全く度外視してブログ人気の表層だけ掬い取ろうとするセコい商魂が薄ら見える感じがする。まあ、ブログって自己完結なものだからいいんだけどね。。。。
激しく余談だが。。。ソーシャルネットワーキングの名前の由来は判然としないが、ソーシャルワーク(social
work)は福祉用語である。これはどういう「福祉」なのか、福祉と全く関係なくどうしてこの名前なのか。自己完結なくせに被承認欲求にばかり飢えている連中が、互いに承認し合える見えない仲間と狭いコミュニティを作って、自己完結コミュニティが乱立して巨大なコミュニティを形成する。・・・・・これって2ちゃんねると同じじゃないかえ? 「排他性」を死守する分だけ、「ならず者の粛清をめざした2ちゃんねる」なのかも。
そういうコミュニティにおけるブログのトラックバックはひたすら内側に向かっていくわけだ。これってもはやトラックバック、いらんのじゃないか?
■ブログとソーシャルネットワーキングは市場シェアを分捕りあうガチンコ勝負していたりして。。。
始めてお役所のPDFを開いたりしたが、総務省のレポートを読んでいると、どうやらブログはついにバブルがはじける感じがしてくる。
いろんな企業があれもこれもとブログ事業に乗り出したが、参入集事業者が増えすぎて、これからはユーザーがサービスを選別する時期がようやく来たようだ。
ところが、サービスの選別と事業者の淘汰が進む傾向はSNS(ソーシャルネットワーキング・・・いいかげん略します)の方でも同じらしい。
知名度が低い分、SNSの方が形勢が不利だが、SNSが今後ユーザーの利用者の年齢層(現段階は若者限定)を広げていって、コミュニティのカテゴリの多様性がターゲット年齢層の拡大によって深まっていけば、もっとSNSの市場は広がっていくことだろうと思う。
ブログにしろ、SNSにしろ、利用者のニーズというのは、「コミュニケーション・ツール」としてどこまで活かせられるか、ということに尽きる。そしてどういった「コミュニケーション」を求められているか、という「コミュニケーション」の内容の質が問われている。
「コミュニケーション」の部分だけで言えば、軍配が上がるのは、SNSの方だろう。こちらの方が可能性がある。
ブログユーザーの大半が「身近な友達同士で内輪ウケに終始し、自己満足で営まれる、露出ごっこの趣味としての自己完結の遊び」として身内が読者の私的な日記として利用している人が多い以上、こういうブログユーザーのニーズに近い「コミュニケーション」の内容の質を提供してくれるのは、ブログではなく、SNSの方だろう。人々が求める「コミュニケーション」とは「選別された仲間」との「一体感」であり、「外発的な内輪ウケ」を誇示されることのない、「内発的な内輪ウケ」に収束されることなのである。
ブログの側はすでに「内輪ウケ」の部分において膠着している。少なくとも、「切り込み隊長」だとか「ガ島通信」だとか後発者にとってうっとおしい固有名詞が跋扈している限り、素人や初心者は敬遠する。ブログは全体のカテゴリの集団の中では自己完結しているくせに、自己完結した個々のブログには冷たい。ていうことは、要するに、「個々に自己完結していてもOKなのよ」みたいなSNSに比べ、ブログの全体としての自己完結はウザイかぎりなのである。大体、多くの人間はブログジャーナリズムになんて興味が無い。ブログをメディアの対抗言質にしようと呼びかける人間の「権威」に収束されるマクロな「自己完結」が取りこぼしていく、よりミクロな「自己完結」は、SNSに流れていくだろう。
SNSにだって日記があり、ブログより面倒くさくない。かつて、通常のネットサイトが構築の技術的難易度の高さから、ブログにサイトのお株を奪われたように、ブログより遥かに面倒くさくなく自分の「ホーム」を持てるSNSは、ブログよりも更に技術的に敷居が低い。「コミュニケーション」の内容の質においても敷居が低い。またブログのトラックバック以上に、例えば「コミュニティ」を兼ねそろえたmixi
の伝達性は群を抜いている。そしてブログの唯一の弱点である「空間的要素の縮小」をSNSはあっさりとカバーしている。ブログでは付属品でしかなかった掲示板やメールがここでは利便的に働くし、インスタント・メッセンジャーでも導入すればもっとSNSは盛況になるだろう。しかもブログは放置すれば誰も見なくなるが、SNSにはそれがない。受身で好きなペースで継続可能なのである。ブログが「書くことに追われる公団住宅」ならば、SNSは「誰にでも均質に与えられる何もしなくたって構わない安価なメンバーズリゾート」というところだろう。
つまり、通常のネットサイトに取って代わる際にブログが排除した「ポータブル」な要素を、SNSはブログよりもユーザーにとって簡単なツールでありながらその「ポータブル」を拾い上げているわけである。
SNSという対抗軸が現れたことによって、露わになったことは、ブログはツールとしての意味しかなく、ツールとして通常のネットサイトやSNSと相対的なものでしかないことがはっきりしたということである。
だからこそ、ブログはメディアだとか対抗言質だとか、そういった大層な文化としての概念は全くの幻想でしかなく、ツールとしての選択肢の域を出ないというところに落ち着くと考えられる。
■ブログの登場は仮想世界への固定ハンドルネームによる自己演出の逃走という病をますます深刻化させた
いささか時事を扱ったブログを書きすぎたせいもあるが、同じように時事を扱ったブログを大量に読んできたのがブログ開始から今日の終わりまでのこの3ヶ月間だった。
特に「サヨ」と揶揄されるような人のまじめに情熱と丹精をこめて書かれた、体制の非を告発するようなブログ記事にお目にかかると、わたしはいつも、藤子不二雄の短編『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』を思い出して、なんだか寒気がしてくるのである(非常に失礼なリアクションだが)。自分が、なんだか訳の分らない義憤に似たような私憤にかられて時事を切るような文章を書いたあとも、ふっと我に帰ればこのマンガを必ず思い出してくる。
新聞の投書マニアの、非力で目立たなくて社会的ステイタスの無い、そのくせ正義感ばかりが異常に強いサラリーマンがあるとき超人的能力を手に入れて「スーパーマン」みたいになるのだが、最初は人助けをしていたつもりが、世の中に疎まれ始めるととんでもない破壊者に変貌する話だ。
なんだか時事を扱うブログって、新聞の投書欄に酷似してるんですよね。でもブログってのは投書マニアのタブロイド紙みたいなもんだから、投書欄の一記事なんかより遥かに書き手の世界が充満しているわけですよね。素人が書く時事ってのは、とくに反体制的な情熱を持ったひとのそれってのは、なんだか、「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」的な怖さが匂うんです。ユーモアの遊びの部分があればいいんですが、まじめに反体制的情熱がある種の厭世観の暗さを伴ってまじめに書き込まれていれば書き込まれているほど、なんだか怖くなってくる。
社会に対する義憤ていうのは恐らくその7割がたは私憤であって、私憤のほとんどが個人的な劣等感の裏返しではないんじゃないか。自分が経験としてそう思ったりするのだが。時事に気勢をあげる人たち(論理破綻のネット右翼は捨て置いて)に時折記事の中に見られた論理の矛盾やちょっとした知識の取り違えを見つけて指摘してあげたりすると、意外にも怒ってこられたり、無視されたりすることがあったので驚いたことがあった。こちらが悪意なんか全然無くむしろ善意で礼を尽くして書いたところで、そういう意外なリアクションが帰ってくるのは理不尽というより、不可解である。彼らの文章のクオリティに関係なくそういう反応が切り返されるとなんだか不条理を感じてしまう。
そういうときに思うのは、もしかしたらこの人の義憤は私憤であって、私憤てのはその当人のルサンチマンとか自分の現状の社会的ステイタスへの不満であって、この人は社会への義憤を書きながら、同時に、自分はこんな現状に不当に追いやられているのであって、自分の価値はもっと評価されてしかるべきなのだ。。。。。というような自己愛に駆り立てられていってるんじゃないかと思ったりする。
だから社会の非を告発するときの自分はすでに「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」になっていて、ネット上ではそういうステイタスを確立しているつもりなので、文章の欠点を見つけられると、ネット上の仮のステイタスでありながら本人にとっては精神的に同一化されたステイタスにけちをつけられたように思うのかもしれない。
なんだかとっても失礼なことを言ってる感じだが、自分のある種の暗さと向き合ったり、過去のネット上の経験から、いまそういう仮説を展開してるわけである(こういうスタンスからの書き方はヘタレポリシーに反するのだが)。
ネット上のステイタスに固執し続ける人々。
こんな人々は別にブログじゃなくっても、いろいろなネットコミュニティに入ってみれば、どこでも必ず存在する。2ちゃんねるは例外として、ある特定の分野のコミュニティサイトに継続して参加して検分した経験がある人ならば、こういう固定ハンネと共に過剰な自己演出を振舞いながらネット上に自分のキャラクターを定着させようとする人々のことは、もはや当たり前すぎるほど出会ってきたことだろうと思う。
あるコミュニティサイトで投票があれば必ずトップを走る人。そんで個人サイトでは異常にコンテンツがいっぱいで、カキコしたらメールボックス付きの「家」が持てたり、ポイントがもらえたりするような掲示板を置いてる人。週末になったらチャットで朝まで飲み会やったりする人。コミュニティサイトを仕切る人。コミュニティサイトの「事務局」スタッフとかになりたがる人。コミュニティサイトでつるむ人。誰かを追い出そうと躍起になる人。追い出されたらハンネを変えて現れたり出来ない人。追い出すのに失敗して自分の居場所がなくなりそうになったら「自分のハンネを騙られた」とか言い出す人。人の個人サイトにこまめに新年の挨拶を書き込みにくる人。コミュニティサイトの掲示板にに自分オリジナルのアバタ-を置いたりする人。オフ会には皆勤賞の人。オフ会でも人気者になりたい人。オフ会のカラオケで他の人たちがケータイでおしゃべりに夢中でも熱唱を披露してくれる人。。。。。
こういう人たちが、リアルの社会生活では、ヒッキ-だったり、ニートだったり、負け犬だったり、アキバケイだったり、セックスに飢えてたりうんざりしてたり、更年期だったり失職中だったり、バツイチだったり、ドメスティック・バイオレンスにあってたり、セクハラされてたり、彼氏が長いこといなかったり、彼女が生まれたときからずっといなかったり、尻軽だったり、処女だったり、童貞だったり、金持ちの息子だったり、派遣社員だったり、無職だったり、うつ病だったり、ボーダーラインだったり、強迫神経症だったり、いじめられっこだったり、アダルトチルドレンを自称してたり、マザコンだったり、パラサイト・シングルだったり、行かず後家だったり、農家の長男だったり、地方出身者だったり、友達がいなかったり、知り合いは多いけど親友はいないとかいいながら実はみんなに嫌われてたり、目立ちたがり屋だったり、対人恐怖症だったり、目立たなかったり、自分が平凡だと嘆いてたり、自分は不幸だと嘆いてたり、こんなはずじゃなかったと後悔してたり、悪いのは周囲の人間だと意固地になってたり、自分がすべて悪いと異常に自己評価が低かったり、打たれ弱かったり、怒りっぽかったり、すぐ泣いたり。。。。。とまあ、こんな具合で、人それぞれ、リアルな生活ではいろいろなハンディや個性や生い立ちや現状を抱えて歩んでたりするのは別におかしいことじゃないんです。
ただ、リアルの日常に負の自己評価を抱えていて、それをネット上では真逆の自己キャラでありたいと懸命に振舞ってたり、リアルの社会的ステイタスに満足できない人がネット上での自分のステイタスの上昇志向に強いこだわりを見せたりすると、「イタイなあぁ~」と思っちゃったりするって言うだけのことなんですよ。
「なんでそれがいけないの?」と反論されたら、「いけないとは思ってないです。。。汗」と恐縮します。
ただリアルとネット上の自分の姿のイメージがあまりに意識的に乖離させすぎると、そういう自分に気づいたときに、そういう自分が不幸だと思ったりします。
普段の自分を過小評価していたり、自分の社会的ステイタスに不満を感じちゃうのは、哀しいことではありますが、人間のサガかもしれないですけど、リアルな日常に抑圧されているものを仮想世界で本来の自分とは違うものを演じきって、ネットを切断したら、また日常の痛みに戻って、本来の日常を自分が不幸だとか、こんなんじゃない、とかいう絶対視の過小評価に陥りながら、だけど仮想世界で上昇志向が強い割にはリアルではなんら努力できないことって、客観的に「イタイ」という感じになっちゃうだけなんですよ。
そもそもネットに向かいすぎると、日頃は意識されないし思っても見なかったような負の自己イメージがいつのまにか巣をつくちゃって、ネットによって幸福欠乏症にさせられたりすることだってあるような気がしますが。
ブログって、通常のネットサイトを持ったりする経験を経由しなくても簡単に入り込めるし、あの、「ひたすら書き込む」ことに向かい続けるってことは、書いてることがどんな内容であれ、おそらくは「自分をひたすら刻み込む」作業だと思うんですけど、その場所がネット空間であることって、「自分をひたすら刻み込む」過程の中にいつのまにか「自分をひたすら欺き続ける」ことに気づかないうちに取り変わっていたりすることが、もっと自覚されてもいいことなんじゃないかって思ったりするのです。
■ブログを語ろうとしつつ実はインターネット総体の普遍的な部分の片鱗をなぞっちゃったのだろうか・・・・
ネットの中で政治を語ろうとしたようなときに、なにか、自分が国政の一翼でも担っているかのように、なんというか、自惚れたような熱い昂揚感が沸いてくるのは、なんだろう・・・・・。
なにか自分は政治について話そうとしながら、政治以外の何か、内側からか、外側からか、何か別のものに突き動かされているような、不当な暗い情熱に背中を押されているような感じがする。
ネットの中で自分に対して対抗的な言葉に出会ったとき、もしくは自分が唾棄したくなるような嫌悪の対象に向き合ったときに、あの、異様に燃えるような、自分じゃないような、なにか「戦闘意識」のような子供じみた情熱はなんなのだろうか。
むしょうに向こう側にいるなにものかを叩き潰してやりたくなるような、液晶モニターに向かう、残虐な自分のイタさはなんだろうか。休日の真昼に音楽をかけて車に乗っているときの幸せな気持ちよさなんかとは正反対の自分、イタイ自分と分っていながらイタさに率直に落ちて行ってやろうとのめり込む、あの、幸せなときに振り返ると、不幸せでしかないと分っている、あのネットに向かう自分は何なのだろう。
ネットジャンキーという言葉は心地よいが、ネットが暗い自分の友達という聞こえ方の方が、自分にはしっくりと釣り合っている気がする。
ネットに向かってなんだか「戦いたくなる」ときの自分を思うときは、押井守の映画『アヴァロン』の主人公アッシュに自分をなぞらえたくなるナルシシズムを、自嘲的に眺めてみる。
『アヴァロン』であの印象的なボーカルが最初に流れるシーン、あのときの描写が、きっとネットに向かっているときの自分みたいなものだ。あの、仮想ゲームで戦争ごっこをやっているアッシュと、ゲーセンを出て家に帰ってまたゲーセンへ向かうアッシュの繰り返しの日常、あの別々のタイムラインが交錯するときの映画のシーンに、ネットに向かうときの自分と、ネットから解放されているときの自分を、同時に見ているような気がする。犬と暮らす淋しいアッシュ、電車で帰宅するアッシュ、肉屋みたいな店の太った店員と何か言い合っているイケてないアッシュ。きっとあのイケてなさ以上に自分はイケてないはず。あれは映画でここは映画にすらならないイケてない日常。そんで仮想ゲームで戦うアッシュにカタルシスを感じる自分はそれ以上にきっとイケてないことだろう。
仮想ゲーム「アヴァロン」をコンプリートしようとするときに突如現れる、あの天然色の世界、行方不明だったアッシュの愛犬がポスターになってる世界、アッシュに銀色のメッシュがなくなって“アッシュ”ではなくなる世界、あれが現実が仮想から解き放たれる世界なんでしょうか。天然色オールカラーの世界に出て違和感に戸惑っているようなアッシュの姿が、わたしでいうところの「暗い自分の友達」がなくなってしまったあとにやってくる、わたしの違和感なのでしょうか?
ラストに現れた、アッシュのゲーセン仲間、マーフィの言葉が示唆的に聞こえてきます。
「世界は思い込みに過ぎない。
ここが現実であって、なんの不都合がある」
「アッシュ、事象に惑わされるな。
ここが、おまえの、現実(フィールド)だ」
アッシュと戦おうとしながら、アッシュと戦っていなくて、あっさりアッシュに撃たれちゃうマーフィ。死体にならずに消滅してしまうマーフィ。彼の残す言葉がとっても多義的で解釈に困ります。
「現実(フィールド)っていったいどこなのよぉ???」 そんな風に思いながら映画は勝手に終わってくれます。
マーフィの言葉を反芻しながら、モノトーンの世界で仮想ゲームの「未帰還者」となって病院に収容されている映画中盤のマーフィを思い出します。あのマーフィの、天然色世界とは好対照の、モロな廃人っぷり。ネットに向かい合って神経中毒に冒されている自分がとうとうイカレてしまったら、あんなふうなんだろうなああ、とわたしは勝手な解釈を施します。なぜかというと、ネットの、たかが液晶モニターの向こう側と向き合って、残虐になってる自分に、もっと残虐に襲い掛かってくるような向こう側を感じるとき、発狂に似た戦慄を感じるのです。それはとっても怖い。たかが箱と向かい合ってるだけなのに、発狂するように怖い、チビっちゃう。吐きそうになる。潰されて潰されて、叩き潰されて、ディスプレイの中で自分の屍骸が晒し者になっている、そんな気分。そんな、いつの日かの、あるかないか、のるかそるか、皮一枚でこびりついているような明日への、得体の知れない、予期不安。
だったらネットをしなければいいじゃないのぉ? と、一応自分で自分に突っ込んでみたりするのですが、ネットをしないことが、それがまた、空洞と向き合うような不安定を想像したりするんです。それぐらいにしか、リアルの自分がイケてないのでしょうか? いや、ネットに向かい合ってるからこそ、イケてるかイケてないのか、そんなのどっちなのか分らない、どっちだっていいいような、どうでもいい相対的な日常が、ディスプレイの向こう側から「それはイケてないんだろうが」と突っ込まれるような気がします。イケてなさは、なにか、このディスプレイが鏡みたいに返してくるような、でもすくなくとも、相対的なものが相対的じゃなくなる気がするんです。主観的にどんどんネガティヴがネガティヴを増殖させていくような気がします。
渋谷陽一はデビッド・ボウイの出世作『ジギ-・スターダスト』を評して、「ロックのスターが現在の社会では捨て石的なもので、ロックを必要としている事は我々の不幸なのではないか」という内容が歌われている、と書く。
わたしはこの評を模して、「ネットジャンキーのわたしはネットの社会では捨て石的なもので、ネットを必要としている事はわたしの不幸なのではないか」という風なことを思った。
ネットを媒介にして世界に向き合っているとき、ディスプレイには、わたしの主観としての不幸が反映されてしまうのではないかと考える。主観的な不幸であって、客観的ではない。幸福という価値は相対的なもので、主観的に感じる場合はその主観がその人間にとって現実になる。わたしがネットにわたしの不幸を反映させているのは、ネットに触れていることによって、わたしが「自分が不幸だ」と思い、実際に不幸な自分を選択している。
ネットジャンキーなわたしはネットの社会では捨て石的であるのかもしれない(わたしがそう決めつけているだけかもしれない)。
だが、わたしはリアルな現実の中において自分が捨て石的なものであるとは思わない。絶対にそうは考えない。
ネットの中でわたしが捨て石的なものであるならば、わたしが書いていたネットの中での文章はその時に死んで終わってしまっている(ように思う)。だが、リアルな現実でわたしが捨て石的であると考えて、わたしはそれで終わってしまうなら、わたしは絶対に「捨て石的」という主観に沈むわけにはいかない。リアルな現実を生きている最中にわたしが「自分が不幸だ」と思い、不幸な自分を選択すると、わたしの現実は即座に不幸そのものになり、そういう絶望と一緒に生きることは不可能だと思う。
わたしは常に幸福を相対的な価値として留保する。生きる側を向かっていく。そうであらなければと思っている。
だからネットを媒介することが、わたしが自分を主観的な退廃に一方的に向かわせて、相対的な価値を見ることをできないように自分を貶めてしまうのであれば、わたしはネットから自分を解放するだけである。ネットジャンキーをやめるというだけの話なのである。
わたし達のブログをやめるという結論からいろんなことを考えている最中に思い出したのが、池澤夏樹の初期の作品である『スティル・ライフ』だった。
『スティル・ライフ』に登場する公金横領犯の佐々井はリアルな社会をシェークスピアと同じく「劇場」に喩えて、「約束事」によって「ドラマティックな興奮」が得られるように「作られた」「別の世界」のようだという。株の運用という「ゲームから降りる」ために、わざわざ自分が会社にもたらした利益を横領して犯人になって逃亡することで、リアルな現実から消えて、「透明人間」になる。佐々井という偽名を使って(本名は最後まで明かされないし、明かされることが必要とされない)逃亡生活を平和に送りながら引越しをし続け、盗んだ金には手をつけずにアルバイトで生活費を稼ぐときだけ社会に接点をもち、そういうときにだけ彼はリアルな現実の「人間関係のネットワーク」の「一つの結び目」となっている。
話の筋だけ追えばフリーターの話かというほどしょぼいのだが、佐々井という匿名の人間の、リアルな社会の捉え方自体が仮想的で、彼の物語の中での存在の仕方がまるでネット空間のリモートホストのようなのだ。この人間の視点をフィルターに据えてみると、「約束事」によって「ドラマティックな興奮」が得られるように(得られるかのように)「作られた」「別の世界」である「劇場」としてのネット空間の捉え方が、リアルな現実にもそっくり応用できるのではないかと見えてきたりする。リアルな現実がすでに「約束事」によって「ドラマティックな興奮」が得られるように「作られた」「別の世界」で「劇場」のようであり、インターネットとまるで同じ構造であるのではないか、というわけだ。そんな、すれちぎった、シニカルな現実感覚。
リアルな現実さえもが「約束事」に覆われた作りもののような「劇場」であることを宿命付けられてわたし達が生きていかざるを得ないとするならば、わざわざリアルな現実という「劇場」の上に、さらにネット空間という「劇場」を二重に必要として、「作られたもの」の上にさらに「作られたもの」を敷いて、そんなふうにして世界を眺める必要がどこにあるんだ、めんどくさいじゃないか、という話にわたしは辿りつくという訳である。
そういう風に考えると、わたしはネット空間で「萌える」ことがなくなる、という気がしてくるのである。なぜなら、ネット空間と同じように「作られた」「約束事」としてリアルな現実が機能しているという視点からすれば、ネット空間以前に、すでにこのリアルな現実でわたしは「萌えて」いる可能性、というか、必然性だけがあれば、それで十分だし、それ以上必要なものを備えるのはただただウザイんじゃないかという話になるわけである。
ブログを捨てて、
町へ出ます!
ネットやめちゃって、
イタリア人の恋人でも、
探しに行きます!!
お し ま い !!
文責 :
discomfort#6
snowfish#7
raderin#7.6
mitsuouko#8
uzumaky#9
cherrymoon#9.6
↑よかったらクリックしてください
Comment
最終エントリ全てに肯定出来たワケではありませんが、最終結論を得られたのであろう事が羨ましい限りです。
萌え、ですか。
血の乾きを覚えてしまうのは時代を問わずダークストーカーの性なのでしょうw
お疲れ様でした。 それでも私は、貴方達に萌えていましたよ♪